フォメンコの三人姉妹には、とある仕掛けがなされていて、普通の三人姉妹の舞台とは異なっています。実際に見てみるのが一番ですので、ここでこの仕掛けについて種明かしするつもりはありません。ただ、そのことについて少し考えてみたいなぁと。
フォメンコの舞台ではその仕掛けによって、観客に一つのクッションが与えられています。どんなクッションなのかというと、「これは演劇なんですよ」というクッションです。なんかブレヒトの異化効果みたいな感じですが、あまりその辺りに言及すると専門家が飛んできて突っ込まれそうなんで止めておきます。
兎にも角にも、演劇が演劇なんだという表明をしているわけです。では、演劇とはいったい何なんでしょうか?
第7芸術と仮の答えは可能ですが、結局、何の事やらはっきりしません。
気がついたらジャンル論になっているのですが、少しだけ取り留めもないお話に付き合っていただきます。
現在の世界には、演劇以外の娯楽が無数にあふれています。特に映画の存在は、演劇にとってあまりに大きな存在です。まず、大量生産が可能だという点。舞台はどんなに詰め込んだとしても、2000人辺りで限界が生じますが、映画は映画館の数だけ観客を入れられます。さらに、時間や場所も問われません。もはや自分の部屋でも映画は見られます。恐らく一般の人はこう思っている人も少なくないと思います。わざわざ高い金払っておもしろいかどうか分からない舞台を見に行くくらいなら、家でDVD借りて見た方が断然マシ。まぁその通りです。否定できません。
それゆえ、いま(いや、もはやかなり前から)演劇は演劇であることの付加価値を現在求められているのだと思います。
しかし、そこで他の作品にはない部分を追い求めることが効果的だ、とは私自身思っていません。例えば、演劇は映画と違って生で作品を見ることができますが、素晴らしい映画作品を生で見たとしたら、そちらの方がおもしろいのではないでしょうか。媒体によって切り捨てられた部分などに、その芸術性は含まれていないと思うのです。ここら辺に変に拘りすぎて拗れてしまった演劇は多いような気がします。他にないものを求めるよりも、そこにあるものを丁寧に扱えれば、それだけで作品は良くなるはずです。なにも最初から重箱の隅をつつかなくても…と思うのです。
話が飛び飛びですが、そういった意味に於いてフォメンコの三人姉妹は完璧だったと思っています。演劇に於いて万人が納得する作品などは不可能なので、賛否はあると思います(こんな前置きなどいらないのですが、一応万人が見られる媒体に記述しているため前置いておきます)。役者ができることをやっていて、演出家ができることをやっていて、照明ができることをやっていて、音響ができることをやっていて…。演劇というものに参加している人全てが、それを理解していたと感じたのです。
そして、フォメンコは最後に重箱の隅をつついて、あの仕掛けを使ったのではないかと勝手に思っています。
これは演劇だと。いや、これが演劇だと。
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