『演劇の歴史』
アラン・ヴィアラ著
高橋信良訳
『演劇の歴史』は2005年に、フランス17世紀の文学・演劇を専門とするアラン・ヴィアラによって執筆された。フランスとアメリカで教鞭を執るヴィアラ氏の関心は、作家・作品ではラシーヌを中心とし、また17世紀の作家が置かれていた社会的立場や出版事情に向けられている。そうした著者の専門的な関心が、17世紀という枠を超えてフランス演劇史というより広範囲に向けられて書かれたものがこの『演劇の歴史』と言えるであろう。
そして、この『演劇の歴史』の原著が、2008年高橋信良氏によって日本語に翻訳された。一読すれば分かると思われるが、この書でヴィアラ氏はわずかな文章にその許容範囲の限界まで情報量を詰め込んでいる。そうした文章を日本語に移し替える作業が困難を極めたことは予想に耐えない。特に一つ一つの言葉こうして日本において最新の演劇の歴史についての書を読むことができるのは高橋氏のおかげである。著者ヴィアラ氏に向けてと共に、翻訳者である高橋氏にも感謝を表したい。
本書は全七章で構成され、各時代の演劇を社会の傾向と共に端的にまとめている。第一章ではギリシア・ローマ時代、第二章ではフランスの中世、第三章から五章にかけては近代を三つに区分して論じている。そして、第六章では第三共和政時代、第七章において現在までの演劇を扱っている。まさに演劇の歴史、人類の歴史に相当する期間を扱った書であるが、わずか一四○頁にまとめられたコンパクトな書である。
ヴィアラ氏はこの書が手引き書であると述べているが、まさにこれから演劇を研究しようとしているものにとっての入門書であり、そして、研究をしているものにとってはフランス演劇の歴史という時間軸を抑えるための出発点となりうる書である。しかし、そうした解説書としてだけでなく、各時代それぞれにヴィアラ氏の視点である社会と演劇の繋がりについての鋭い言及がなされており、社会構造の変化と演劇の様相の変化の関連性が新たに述べられている。しかし、広範囲な歴史を概観した書であるため、詳細な作品解説はなされておらず、著者が社会状況を表していると考える作品にのみあらすじが加えられている。
まず著者は、歴史的な流れを追って分析を始める前に、演劇を3つの側面から定義している。1つ目が公共のスペクタクルとしての演劇、2つ目がテクストとしての演劇、そして、その2つの演劇が社会の中でどのような価値を抱いてきたのか、という3つの演劇に対する視点である。本書は各時代ごとに、著者がこの3つの観点から時代と演劇の関連性を解説していく様式を取っている。つまり、演劇の歴史を知るためには、観客、作品、上演形式、そして演劇が催される理由を考慮に入れなければならないのである。
第一章では、まずギリシア時代における演劇が宗教的儀式から発達し、国民的な祝賀行事に組み込まれていたことが示されている。そして、こうした行事が参加者から見通せるようにするために劇場の原型や、上演が競演されることで優劣を決める必要性から批評家の原型が生まれている。加えて、この時代の演劇の主題は歴史と神話、つまり共同体の過去が問題にされていたことが指摘されている。それは、当時の演劇が共同体の存在に立脚しており、政治的な側面が強かったことを意味している。このギリシア時代の演劇が政治活動の性質を帯びていたという指摘は鋭く、興味深い点である。また著者は同時に現在の精神分析を用いた研究に対して批判を述べている。最も頻繁に用いられる精神分析の手法の例としてはフロイトのオイディプスコンプレックスがあるが、筆者によれば、ギリシア時代の演劇作品に描かれた人物がまるで人間のモデルケースとして扱われる精神分析は、時代や社会との繋がりを欠いたものであり、それは単なる神話だと指摘している。この指摘は演劇研究のみならず文学研究全体に向けられた重要な意見である。
続くローマ時代における大きな変化は、演劇そのものよりもそれに関わる人間の立場に生じた。これまで市民から無作為に選ばれていた俳優は、専門家がプロとして集団にされ、劇作家も初めは単なる代書人のような存在であったが、演劇の人気が高まると共に詩人たちと同列の組合に属すようになった。この時代になって初めて演劇を担う人間が専門化したのである。そして、作家たちは政治的な問題を主に扱って作品を創作するものと、大衆受けする作品を創作するものに分化していったことが述べられている。こうして見るとローマ時代の演劇を巡る環境が、現在の演劇の状況と非常に近いように思われる。
第二章の中世では、六世紀から十五世紀までが扱われている。この時期、演劇はキリスト教によって強い影響を受けていた。その娯楽性ゆえに危険視されて弾圧の対象となり、その影響力により布教のために利用されたためである。そして、ローマ時代に生まれた俳優や作家などの演劇の専門家は、こうした社会状況の中で消えていってしまった。しかし、こうした宗教的な影響とは別に、都市の登場という社会状況が娯楽としての演劇を生み出していったことを著者は指摘している。都市の住人たちは娯楽として演劇を求め、市場が発達したことで経済的なマネージメントをする業者が現れ、宗教的権威に依存しない形式の演劇が存在していたのである。
また、演劇で表現される卑属的なものに対して宗教が弾圧をしてきた、と一般的に捉えられてきたが、それ以外にもそのあまりの人気ゆえに都市の住民が宗教活動から離れて演劇に没頭するという現実的な問題があったことを著者は指摘している。つまり、演劇の内容ではなく、演劇そのものの強い娯楽性が教会から問題視されたのである。こうした状況を改善するために教会は1548年に演劇の上演を禁止している。
さらに著者はその瞬間が中世演劇の終焉と捉えられてきた研究史に対しても疑問を投げかけている。確かに宗教は演劇に対して影響力を持っていたが、禁止によって滅びたのではなく、演劇を支えていた宗教という推進力そのものが、進学論争や宗教対立によって弱体化したこれで、演劇を受容するものと創造するものを同時に失った。そのために、演劇は消えていったのではないかと著者は述べている。これは社会的な歴史を専門的に研究している著者だからこそ、その社会的事実に捕らわれずに気がつくことが出来たのではないだろうか。そして、この指摘は演劇の歴史に対する再点検を促すには十分な意見である。
第三章からは近代における演劇の特徴が解説されている。この時代に発明された活版印刷の技術は、演劇の価値を大きく変えた。筆者が序章で指摘したテクストとしての演劇は、この時代から注目されるようになったと言ってよいだろう。演劇は見るものだったが、読むものにもなったのである。そして、こうした印刷技術の発達と共にギリシア悲劇などの古典に目が向けられ、翻訳、編纂され、新たに生み出される演劇作品に大きな影響を与えた。つまり、この時代から単独に存在していたそれぞれの時代と作品が、相関関係を持つようになったのである。
ここで著者はこの時代の観客を3種類に区分している。特権階級層、学者層、そして下級貴族や学生、職人などの都市に暮らす中間層である。特権階級はバレエやパストラルを嗜好し、学者層は古代から模倣された喜劇と悲劇を重宝し、中間層は見せ物小屋の観客であった。こうした固定された観客が生まれたと同時に、俳優はプロとなって劇団を作り、それに伴う常設劇場がパリで誕生している。
一方、モリエールなど一部の作家は、3種に分かれた観客の全てに通用するような「完全」演劇を作り出そうと努力し、その結果テクストと音楽やダンスを組み合わせたコメディ=バレエという形式が生まれた。しかし、こうした作品は脚本としてテクスト化される際に、音楽やダンスの部分が効果を失ってしまい、現在の評価は「書き取られた」悲劇や喜劇ほど十分になされていないと著者は指摘している。文学作品としての演劇研究だけでなく、実際の上演に基づいた研究が今後なされるべきだと著者は考えているのであろう。
第四章では、著者が専門とする17世紀フランスの演劇事情が解説されている。それゆえ、数多くの作品や著者に対する詳細な説明がなされているが、ここで注目したいのはフランス革命と演劇の関係について書かれた部分である。フランス革命以降、新体制は旧体制の特権制度を撤廃するために公式の劇場を解体していった。しかし、この革命による劇場の撤廃は演劇を退化させたのではなかった。演劇による教育の影響を認めた新体制から演劇は新たに芸術としての立場を得て、作家などは社会的地位を認められたことが記されている。その後、さらに著作権に関する法律などが整備され、作家が作品を自由に発表できる環境は次々に整っていったことが指摘されている。
また、革命によって生まれた新体制は演劇の教育効果を認め、庶民のために無料で入場が可能な日を週に一度定めている。加えて、要件を満たせば興行に体制から助成金が支払われる法律も施行された。こうした劇場を政府が補助する関係は、現在のヨーロッパでは当然のようになっているが、フランス革命によって演劇が芸術として認められ、その地位を固めたことが分かる。しかし、こうした政治との関係を有したために、演劇の受容形式にも変化が現れている。古典を上演する場合、これまではその時代を舞台上で表現するだけであったが、この時代からは現在の社会とどのように作品が関係するのかが問題にされた。こうした演劇の再認識は、時に政治的観点から作品が歪曲され、脚本の書き直しが行われたことを著者は合わせて指摘している。
第五章では、このフランス革命後の演劇を巡る社会的環境が安定した時期が扱われている。この時期の演劇には、国家制度に基づくフランス演劇を求める流れと、ショービジネスとしての演劇を求める2つの大きな潮流があったことが示されている。特に後者の流れは、ブルジョワジーという新たな観客の欲求に答えるために様々な形式の演劇を生んでいる。そうしたドラムやメロドラム、オペラなどの作品と社会状況の関連について著者の言及がなされている。ところで、このロマン派のドラムについての部分に興味深い一節がある。「ドラムは歴史に基づき、自由でなくてはならない。歴史に基づくとは、人をその時代のなかで語るということであって、あたかもその人がいかなる時代であろうとも変わらないかのように語ることではない。自由とは矛盾がそこで描かれるために自由なのである」(p.98)。これはまさにロマン派のドラムについての説明を越えて、この書を貫いているヴィアラ氏の研究に対する姿勢を示している一文である。そして、この章は後期近代初頭における演劇の矛盾と題されているが、この演劇の矛盾とはこの一節で用いられている意味での矛盾ということであろう。
第六章では1870年から1940年までの第三共和政期が、歴史を区切るための一つ指標として用いられている。この時代には電気による照明が発明されたことで、演劇には大きな変化が生じたことが分かる。この革新的発明は、演出家という新たな役割を生み出したが、その過程が丁寧に解説されている。スポットライトは舞台上をただ照らすだけではなく、その強弱が調整でき、レンズを用いて色を付けることも可能になった。つまり、その光を用いて舞台上での様々な表現が可能になったのである。これまで舞台上で表現を行えたのは役者と舞台美術家だけであったが、その範囲が電気照明によって、それを指揮する演出家まで広がったと言える。
また、電気照明は舞台と客席のはっきりとした境界を生み出した。電気照明が発明されるまでは、客席と舞台の明るさは同じであり、客席だけを暗くすることなど不可能であった。しかし、強い光を発することの出来るスポットライトは舞台上だけを明るくすることが可能になり、観客は暗闇のなかで舞台を見ることが可能になったのである。これは、電気照明の発明が、舞台だけではなく観客席にも影響を与えたことを示している。
そして、文字通り役者にもスポットライトが当たったことが述べられている。これまでのロウソクやガス灯による明かりはフットライトで、下から役者を照らしていたが、電気照明は上から役者に光を当てることで、役者のわずかな仕草でも観客に見えるようになった。これまでの役者は声が重要であったが、体の動きも必要とされるようになったのである。そして、この役者たちの動きをまとめる存在としても演出家が必要とされた。こうした社会的な影響を受け役者の演技に台詞だけでなく動きが加わったことで、アルトーに代表される新たな演劇人が、身体・肉体へ目を向けたのは当然の流れのように思われる。
さて、この章ではカルテル・デ・カトルという演出家組合について言及がなされている。ジューヴェ、デュラン、ガストン・バチ、ジョルジュ・ペトエフの4人が、文学的な演劇を奨励するために協力して作り出したこの組織は、フランスのみならずヨーロッパの演劇生活の拠点となったことが示されている。
ここでピトエフはスイス出身という紹介がなされているが、少し評者による解説を加えておきたい。ジョルジュ・ピトエフはロシアのペテルブルグで演劇を学び、第一次大戦後に亡命した演出家である。パリではシェイクスピアの作品を中心に演出をしたピトエフだが、他にも彼はジャック・コポーの要請でチェーホフなどのロシアの演劇作品を翻訳し、パリの劇場で演出を行っている。六章では民衆演劇の中でロシア革命以降に台頭したアジ=プロ演劇について触れられているが、ピトエフが演出したロシア作家の作品はそうした政治的な影響を受けておらず、それゆえに彼の脚本に根ざした作品がパリで公開されていたことは重要な意味を持っていた。
第七章では戦後から現在までのフランスにおける演劇の動向が記されている。章題に演劇の遍在性という言葉が用いられているが、まさに現在の複雑な状況がそれぞれの演劇の傾向と共にまとめられている。
最後にエピローグの中で著者は、これからの演劇研究がどのような方向に向かうべきか提言して締めくくっている。これまでテクスト重視だった演劇研究だが、それを取り巻く社会環境、例えば演劇を実践するための財政的な問題が研究対象から外されている。他にも、具体的な舞台美術、衣装、装置、照明なども演劇の研究対象はまだ数え切れないほど存在し、そして、その研究はさらに新しい研究を生み出していくことになるであろう。さらに、これまで最も力が注がれてきたテクスト研究でさえ、まだ新たな発見が続々とされていることを指摘している。この指摘はまさにこの書『演劇の歴史』によって体現されていると言えよう。第一章から第七章まで、演劇を巡る事象を歴史の中で見ていくことで、それぞれの章にはヴィアラ氏による新たな視点からの発見、そしてこれから研究されるべき問題提起が散りばめられている。入門書とは主要な基礎知識を抑えるためのものだが、この『演劇の歴史』はそれだけにとどまらず、それぞれの研究領域の新しい入り口を提示した文字通りの入門書である。
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