チェーホフ研のホームページが更新されました。
お約束したとおり、少し2つの作品について私なりの解説をしたいと思います。
『かき』で最も重要なのが、回想だということです。
つまり、成長した少年が、後になって思い出を語っているという形式を取っています。
つまり、少年の生活が改善されたとまでは断言出来ませんが、
あの物乞いをしようとしていた頃と、別の時間を生きていることが最初に示されているのです。
この作品が笑い話として面白可笑しいのも、結局は過ぎ去った過去だから。
それに対し、『ねむい』におけるチェーホフの時間軸の使い方は全く異なっています。
ワーリカが生きているのは、今この時であり
彼女が睡魔に襲われて辿り着くのは、父の死に際といった過去の世界です。
今から逃れて、過去に向かわざるを得ない、彼女の現状が示されています。
この2作品を並べて解説されたということで、恐らくは研究会でも説明がされたと思いますが
2つの作品を結ぶ共通点は、主人公が子供ということだけではなく、
ぼく、ワーリカの2人が共に田舎から都会に仕事を探すために出てきた境遇だということです。
田舎では仕事が無く、暮らしていけないために親は子供を連れて、街中で仕事を探します。
しかし、同じ境遇の人間があふれていた、この時代、そう簡単に仕事は見つかりません。
(なんか、2008年のどこかの国みたいですね)
結局、どちらの家族も仕事は見つからず、物乞いをする羽目になるのですが
ぼくの父親は決心がつきません。
対して、ワーリカの母親は道ばたで物乞いをしていたことが描かれています。
パイジョム パ ミールー。пойдем по миру.
ロシア語では、物乞いをすることをこう言います。
こうした状況でワーリカは何とか靴屋に雇われることができます。
子供だから賃金も安く済むために雇われたのでしょう。
ここである程度の知識がある人ならば、靴屋がどんな職業か気がつくはずです。
雇われる側の悲惨な状況を私たちは小説から知ることができますが、
そこには雇う側の問題も潜んでいるのです。
彼らも好き好んで子供を雇っているわけではありません。彼らも街の中では下層なのです。
それゆえ、粗暴で乱れきった生活をしています。
(なんか2008年のどこかの国みたいですね)
ワーリカは最終的に正常な判断が出来なくなり、赤ん坊を殺します。
その手で首を絞めて、顔に笑みを浮かべながら、相手の息の根を止めるのです。
最後、ワーリカは床に倒れ込み、まるで死んだように眠ります。
果たして、この時、死んだのは赤ん坊だけなのでしょうか?
もう一人、この瞬間に一人の人間が死んだのです。
都市、田舎、就労、住宅、経済、そうした数々の都合に押しつぶされるのは
決まって子供です。
それでは。
明日はテストなのでここら辺で終わります。
0 件のコメント:
コメントを投稿