原作:アントン・チェーホフ 翻訳:池田 健太郎
構成・演出:鹿島 将介
出演:稲垣 干城 瀧腰 教寛
平井 光子 邸木 夕佳 山田 宗一郎
音響:佐藤 武紀 照明:太田 奈緒未 舞台美術:尾谷 由衣
衣裳:富永 美夏 宣伝美術:青木 祐輔
テレプシコールは初観劇
神楽坂のIWATOを小さくした感じの劇場
ポケット方面にはときどき行くが
こんなところにも劇場があるとは知らず
舞台装置は象徴的に真ん中に家
そしてその上に女性が座っている。
家に座っているということは、アンナであろう
と思うが、それは当たっていた。
上演時間が60分ということで、どういうカットの仕方をするのかと思ったが
正攻法でイワーノフとアンナの関係をメインに、余分なところを限界まで削ぎ落している。
イワーノフを何度も読んで、何度も見た私は内容も分かっていて
筋も追うことはたやすかったのだが、
これがイワーノフ初見という人に、この舞台がどのように見えたのかは正直、分からない。
ただ、それほど回りくどい作品であることは確かで、
晩年の四大戯曲と比べ物にならないほど戯曲としての出来はいまいちである。
にもかかわらずここ最近立て続けにこの作品が上演されている。
理由はよく分からない。
役者たちの演技で特徴的なのが、表情による演技が無いという点であろう。
開幕から閉幕まで、彼らは顔による演技を行わなかった。
そうした制約のもとで、彼らは自ら語る言葉と、残された身体でのみ表現をしなければならない。
しかし、身体による表象をするのか、というとそうでもないのである。
私は今回が初めての重力/Noteだったので、イワーノフの構成が
いつものことなのか、特殊なのかは分からないが、
それゆえに、きわめて言葉に、役者の発する台詞に重点が置かれる舞台であった。
こうした中で映えていたのがボールキンなどを演じていた役者だった。
ある意味で一切本筋に関わらない彼の言葉と動きは
その人形のような動きが、過剰に真剣なイワーノフとアンナ、サーシャとリヴォフ
といった中心の4人とは異質で、削られなかった彼の存在が非常に印象的だった。
ただ、そのほかの4人の中心人物については
どうしてもイワーノフの語りがあって、それに付随する形となってしまう構成のせいで
役者という人間を使っているにはアンバランスで、
特に女優のふたりは、あまり目立たなくなってしまっていた・・・
ただ、常に全員が舞台にいるにもかかわらず、こうした差が出ること自体は面白い。
しかし、イワーノフとアンナが決定的に食い違う場面
チェーホフ作品にありがちな、その後、やけくそになって転げ落ちるきっかけの
分かりあえない状態がはっきりする会話があるのだが
作品中、もっとも激しいと思われるそのシーンは、暗闇で役者は見えない状況であったのは
個人的に残念だった・
(完全な闇ではなかったが、役者も動いていなかったので同じことだろう)
言葉と役者の身体と舞台の関係性が、このピークとも思える部分で
なにも見えないというのは、何かしらの意図があっての演出だったとしても
期待していただけに肩すかしをくらった。
60分という時間にイワーノフを凝縮した舞台で構成は素晴らしかったものの、
舞台上では一人一人の立ち振る舞いを超えていたかには疑問符・・・・
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