2017年1月16日月曜日

堺雅人と真田幸村の最後とスタニスラフスキーシステムの「与えられた状況」と「魔法のもし」

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/20/kiji/20161220s00041000057000c.html
堺雅人「なぜ幸村は目を閉じ、微笑んだのか」

もう景虎始まったけど、去年気になってた記事
そのままだと忘れそうなので備忘録。

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/special/interview/interview72.html

真田幸村の最後の場面、堺雅人は以下のように演技したことを
スポニチのインタビューに答えています。

 「美学として死ぬというよりは、相手に首を取られると、それだけ相手の作戦が立てやすく、実行しやすくなります。幸村が死んだと分かれば、徳川は幸村に割く兵力を削減できるので。相手に首を取られるというのは作戦上、よくないわけです。自分の首を取って逃げる佐助の体力の温存具合を見計らいながら、どうやらここがギリギリだから、ここまで来たら佐助に首を取って逃げてもらった方が作戦上よろしかろうという非常に現実的な選択だと思うんです」

 「幸村の生死を曖昧にした方が、豊臣にとっては戦略的に有効なわけで。だから『ここまでのようだな』というのは決して美学として言っているわけではなく、最後の最後まで職務をあきらめず、最後の最後まで職務を全うしたセリフだと思うんです」

最後の死をこんな風に考えられる役者がどれだけいられるのだろうかと思わされる
インタビュー内容です。

主人公の死という物語のクライマックス
そんな一般的な状況ではなく、

あの時代、あの人物、そしてその状況から
演技を作りあげていく、
まさにこれこそがスタニスラフスキーの「与えられた状況」と「魔法のもし」です。

堺雅人はスタニスラフスキーの(俳優の仕事)を読んでいます。


真田丸は三谷幸喜の舞台を観ている人には、
彼が好きな役者のオンパレードだったわけですが、
やっぱりドラマはシナリオじゃなくて役者だと再確認させられた作品でした。

いやはや、みんな
想像力と読解力をもっともっと鍛えてほしいものです。

演出家に言われた通りにただ動いている人間を見るのはもう辛いです。
まだ演出家が考えてればいいけど、演出家すら考えてないのはさらに辛い。

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