2008年8月14日木曜日

『ねむい』

 夜。13歳になる子守のワーリカが、赤ん坊の入ったゆりかごを揺らしている。


彼女の歌う子守歌が、かすかに聞こえる。


 イコンの前では、緑色のランプが灯っている。
部屋の端から端までロープが張られ、そこにはいくつものオムツと大きな黒いズボンがかかっている。
明かりは天井の大きな緑色の染みを照らし、オムツとズボンが暖炉とゆりかご、
そしてワーリカに長い影を落としている…。
明かりがまたたくと、染みと影もまるで風が吹いたかのように動く。
蒸し暑い。
スープと靴の革のにおいがする。
 赤ん坊が泣いている。
もうだいぶ前から泣きくたびれ、声はかすれているが、それでもまだ泣きわめいている。
いつ泣きやむのかは分からない。
ワーリカは眠りたかった。
彼女のまぶたはくっつきそうで、頭は垂れ下がり、首が痛かった。
まぶたも唇も動かせず、顔は乾燥して麻痺し、頭は待ち針の頭のように小さくなった感じがした。


 彼女は子守歌をつぶやいている。


 暖炉でコオロギが鳴いている。
隣の部屋のドアの向こうでは、主人と女将のアファナーシイがいびきをかいている…。
ゆりかごは悲しげに軋み、ワーリカは小声で自分に歌っている。
そうした全ての音たちが夜の闇で一つに溶け合った合唱は、
ベッドに寝ていれば心地よく甘く響くのだろうが、今はただ不愉快で重苦しい。
その合唱は眠気を呼びさますのに、いまは眠ることができないからだ。
もしワーリカが寝てしまった、そんなことになったら、きっと女将がワーリカを殴りつけるだろう…。

 ランプが揺らめき、緑色の染みと影が騒ぎ始める。
ワーリカの目は半開きで動かず、半分眠りかけた頭の中は夢うつつになった。
ワーリカには空を吹き荒れ、赤ん坊のように唸る黒い雲が見えた。そして、風が吹いて、雲が消えていった。
すると、目の前には泥水に覆われた広大な道路が広がった。
道路には荷車を引く背負い袋を背負った人々がのろのろと歩いていて、
何か影のようなものが行ったり来たり走り回っている。
両脇の冷たく濃い霧の向こうには森が見える。
突然、背負い袋を背負った人々と影たちは、地面の泥水に倒れ込んだ。
「どうしたの?」とワーリカが聞くと、「眠るんだ、眠るんだ!」と答える。
彼らはぐっすりと、気持ちよさそうに眠ってしまった。
電線に留まったカラスとカササギは、赤ん坊のように鳴き叫び、彼らを起こそうとしている。


ワーリカは子守歌をつぶやいている。


気がついてみると、彼女は、薄暗く蒸し暑い小屋の中に居た。

 床には、死んだ父親エフィーム・ステパーノフが転がっている。
彼女には父親が見えない。
だが、痛みで転がり、うめくのが聞こえていた。
彼が言うことには、「ヘルニアがうずいている」らしいということだったが、
彼は酷い痛みで一つの単語しか口にできず、息を吸うのもやっとで、
小刻みに震えた歯が当たって音を立てていた。


ヴー、ヴー、ヴー…。


 母親のペラゲーヤは、エフィームが死にそうだ、と知らせるために領主の屋敷へ走っていっていた。
もう戻ってくる頃だったが、彼女が家を出てからずいぶん経っていた。
ワーリカは暖炉の上に横になり、眠らずに父親の「ウー、ウー、ウー」という唸り声を聞いていた。
すると、誰かが部屋に入ってくるのが聞こえた。
それは領主がよこした若いドクトルだった。彼はたまたま街から領主を訪ねてきていたのだ。
ドクトルが部屋に入ってきた。暗くて見えなかったが、彼が咳をするのとドアを閉める音が聞こえた。
 「明かりを点けて下さい」と彼は言った。
 「ヴー、ヴー、ヴー…」とエフィームは答える。
 ペラゲーヤは暖炉に駆け出すと、マッチの入った入れ物を探し始めた。
沈黙の時間が流れる。
ドクトルはポケットを探り、自分のマッチを点けた。
 「今すぐ、旦那、今すぐに…」
 とペラゲーヤは言って小屋から飛び出し、しばらくするとロウソク立てを持って戻ってきた。
 エフィームの唇は桃色で、眼は輝き、視線は何か独特な鋭さで、
まるでドクトルと部屋がはっきりと見えているかのようだった。
 「えぇ、どうしたんだ?何か思い当たることがあるかい?」とドクトルは言って身をかがめた。
 「おい!ずっとこんな調子なのかい?」
 「何…って?くたばるときが来たんです、旦那…。生きる見込みはありませんや。」
 「馬鹿なことを言うもんじゃない…、きっと治るさ!」
 「お好きなように…、旦那。お気持ちはありがたいですが、分かっているんです。
  こればっかりはどうにもなりません。」

ドクトルは15分ほどエフィームを看たあと、立ち上がって言った。

 「私ではどうにも出来ない…。病院に行って、そこで手術をしないといけないだろう。
 すぐにでも出発しないと…。
 よし、出発だ!ちょっと遅い時間だな。
 病院では皆もう寝ているだろう。でも問題ない。紹介状をあげるから。聞いているかい?」
 「旦那、でもどうやって行くんでしょう?私たちには馬が無いんです。」とペラゲーヤは言った。
 「大丈夫、私が頼んでみよう。彼らは馬を貸してくれるさ。」
 ドクトルが出て行くと、ロウソクの火は消え、再び「ウー、ウー、ウー」という呻き声が聞こえてきた。
30分ほどして、小屋に誰かが乗りつけた。
領主がよこしたエフィームを病院に運ぶための馬車だった。
エフィームは支度をして、馬車は出て行った。

 素晴らしい澄み切った朝がやって来た。
家にペラゲーヤの姿はない。彼女はエフィームがどうなったかを知るために病院に向かったのだった。
ワーリカにはどこかで赤ん坊が泣いているのが、
そして、誰かが彼女の声で子守歌を歌っているのが聞こえた。

 ペラゲーヤが戻ってきた。そして、彼女は十時を切ってささやいた。
 「夜中に処置をしてくれたけれど、朝方には神様の元に…。天国に安らぎ給え、永遠なる安息を…。
  来るのが遅すぎたって…。もっと早ければ…。」
 
 ワーリカは森に向かい、そこで泣き始めた。

 だが、突然誰かが彼女の頭を後ろから力一杯殴りつけ、彼女は拍子に額を白樺にぶつけてしまった。

彼女が目を上げると、目の前には彼女の靴屋の主人が立っていた。

「何をやっているんだ、この役立たず!赤ん坊が泣いているのに、お前は寝ているのか?」と彼は言った。
 彼は彼女の耳を引っ張った。
 彼女は頭を強く振ると、ゆりかごを揺らし、歌を歌い始めた。
 緑色の染みとズボンとオムツの影が揺れて、また彼女の頭をぼんやりとさせた。
再び、泥水に覆われた道路が広がった。
背負い袋を背負った人々と影は、寝そべってぐっすりと眠っている。
彼らを見ていると、ワーリカは眠くてたまらなかった。

 もし横になれたとしたら気持ちがいいのに、しかし、母親のペラゲーヤがそばに来て急かした。
2人とも、急いで町で働き口を見つけなければならなかったのだ。
 「どうかお恵みを!お願いです、どうかお恵みを!」と行き交う人々に母が頼んでいる。
 「こっちに赤ん坊を渡しな!」誰か知っている声が、それに答えた。「赤ん坊を渡しな!」同じ声が繰り返  し、すぐに怒りと厳しさを伴った「聞いているのか?グズ!」という声がした。

 ワーリカは飛び上がって、周りを見渡して気がついた。
道路も、ペラゲーヤも、行き交う人々など無く、
ただ部屋の真ん中に、赤ん坊にミルクをやるために女将が立っているだけだということに…。
太った大柄な女将が赤ん坊にミルクをやり、なだめているあいだ、
ワーリカは彼女を見つめながら立って終わるのを待っていた。
窓の外はもう青くなり、影と天井の緑色の染みは薄くなっていった。もうすぐ朝になる。
 「持ってな!」とシャツの胸のボタンを留めながら女将は言った。
 ワーリカは赤ん坊を受け取り、ゆりかごに入れ、また揺らし始める。
緑色の染みと影は、だんだんと消えていき、もう彼女の頭の中には誰も現れることはなかった。
けれども、眠かった。
眠いのだけはどうしようもなかった!
ワーリカは頭をゆりかごの端に乗せ、眠気を振り払うために自分の体も揺らした。
しかし、それでもなお、まぶたはくっつきそうで頭も重たかった。
 
 「ワーリカ、暖炉をつけな!」ドアの向こうから女将の声が聞こえた。
 それは、もう起きて仕事を始める時間だということを意味していた。
ワーリカはゆりかごを残して、納屋に薪を取りに走った。彼女は嬉しかった。
なぜなら走っている間は、座っているときほど眠くないからだ。
彼女は薪を運ぶと火を付けた。すると、ぼんやりとした彼女の顔がピーンと張り、意識がはっきりしてきた。
 「ワーリカ、サモワールを点けな!」と女将が叫んだ。
ワーリカが木切れに火をともし、サモワールが点いたとたん、新しい注文が聞こえた。
 「ワーリカ、ご主人の靴を磨きな!」
彼女は床に座って靴を磨きながら、大きな深い靴の中に顔を入れて
少しウトウトしたら素晴らしいのにと考えた。
すると突然、靴は大きく膨らんで、部屋を埋め尽くした。
ワーリカはブラシを落とし、すぐに頭を振り、目を大きく開け、靴がもう膨らまないように、
しっかりと見つめて視線を動かさないようにした。
 「ワーリカ、外で階段を磨きな!あれじゃ、お客に恥ずかしいからね!」
ワーリカは階段を磨き、部屋を掃除し、その後で別の暖炉を点け、店に走った。
仕事は大量にあり、一分だって暇な時間はなかった。
しかし、テーブルの前の同じ場所で立ってジャガイモの皮をむく事ほど辛いことはなかった。
頭はテーブルに引き付けられ、ジャガイモは目の中でうねり、ナイフは手から落ちそうだった。
台所には太った怒りっぽい女将が腕をまくり上げながら歩き回り、大声で喋るのが耳に響いた。
昼食の準備、掃除、裁縫、同じように辛かった。
床に倒れ込み眠りたくても、そんな時間がありはしなかった。

一日が過ぎていった。

窓の外が暗くなるのが見える。
ワーリカは痺れたこめかみを抑えて、自分でも何が嬉しいのか分からなかったが微笑みを浮かべた。
夕焼けは、くっつきそうな彼女の眼を優しくなで、甘い眠りの訪れを期待させた。
夕方、女将にお客がやって来た。
 「ワーリカ、サモワールを付けな!」と女将は叫んだ。
ここのサモワールは小さく、客がお茶を飲むたびに5回も沸かし直す必要があった。
そして、お茶の後でも丸一時間同じ場所に立ってお客に目を向け、言いつけを待たなければならなかった。
 「ワーリカ、走ってビールを三本買ってきな!」
彼女は持ち場を離れ、眠気を振り払うために全速力で走った。
 「ワーリカ、急いでウォッカだ!」
 「ワーリカ、栓抜きはどこだ?」
 「ワーリカ、ニシンをきれいにしな!」
ようやく客が出て行った。明かりは消え、女将は寝るために横になった。
 「ワーリカ、赤ん坊を揺らしな!」最後の注文が響く。
暖炉ではコオロギが鳴いている。
天井の緑色の染みとズボンとオムツの影が揺れるのが、再びワーリカの半開きの目に映り、
彼女の頭をぼんやりとさせた。


彼女は子守歌をつぶやいている。


だが、赤ん坊は泣き止まず、鳴き声にうんざりした。
ワーリカには、再び汚れた道路と袋を背負った人々、ペラゲーヤ、父エフィームが見えた。
寝ぼけながらも、彼女は全てを理解し、みんなのことを知っていた。
けれど、彼女の両手足を縛りつけ、彼女を苦しめ、生きるのを邪魔している原因、
それがどうしても分からなかった。
彼女は周りを見回し、それから逃れるためにその原因を探したが見つからない。
苦しみながら、彼女は全ての力を振り絞って、揺れる緑色の染みを見上げ、鳴き声に耳を傾け、
彼女の邪魔をしている敵を、ついに見つけた。


敵は―こいつだ。


可笑しかった。どうして、こんな簡単なことにもっと早く気がつかなかったのだろう。
緑色の染みも、影たちも、コオロギも、同じように考え、笑い、驚いていた。
この間違った考えはワーリカを支配していった。
彼女は椅子を立ち上がり、満面の笑みを浮かべ、まばたき一つせず部屋を歩き回った。
彼女を縛り付けていた赤ん坊から逃れられるということが、嬉しくて仕方なかったのだ。
赤ん坊を殺して、眠ろう、眠ろう、眠ろう…。
緑色の染みに笑いかけ、目配せして、指で合図したあと、
ワーリカはゆりかごに忍び寄り、赤ん坊の方にかがみ込んだ。

そして、絞め殺すと床に倒れ込み、眠れる喜びから笑い出し、すぐにぐっすりと寝てしまった。
まるで、死んだようにぐっすりと…。


   次の研究会では『ねむい』と『かき』を読むようなので翻訳を掲載してみました。

   実はこちらに来てから、日本で殺人事件が多発したときに
   この作品を舞台でやりたいと思って、訳していました。
   もともと脚本化のために翻訳しているので、かなり意訳しています。

   解説も書いてありますが、それは研究会の後に載せます。

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