顔合わせには出られなかったものの、ようやく本読みに参加。
mixiの方にも書いたけど、こちらにも感じたことを書いておきます。
まず、ロシア人になろうとしている役者がいる気がすること。
もちろんそんな単純なことを役者たち考えているわけではないとは思うけれど
そう思わさせられるような言葉がちらほらと出ていたように思います。
これって、よーく考えるととっても変な考えなんですよね。
もし、あなたが外国にいったとして、
その国の人に日本人を演じるので、日本人になる方法を教えてくださいと言われてどう思いますか?
そんなの分かりません、としか私が答えられません。
その質問に考えて用意された答えは何かマガイモノのように思います。
そこに書かれた人物を演じるのはともかく
~~人などという漠然としたものを追い求めても、何にも捕まえられないのではないでしょうか。
けれど、みんな真剣にそう考えていたりします。
よくハリウッドの映画を見ていると、日本人ではないアジア系アメリカ人の人が
日本人を演じていることがあります。私たちはそれを見て言いようのない違和感を感じます。
むしろ、普通にやってくれればいいのに…と思いながら。
なぜかお辞儀をしたり、七三でスーツ着てたり、はたまた日本刀振り回したり。
さぁみんなでウォッカを飲んで、ロシア人の気持ちになりましょう。
そんなわけありません。しかも、最近のロシア人はウォッカを飲まないんですよ。
新聞やらニュースやらで、ウォッカを飲んだロシア人が大量に水難事故にあっている。
という記事があるけど、飲んでいるのは普通にビールですから!!
暑い中、旨いのはビールなんですよ。そのくらいロシア人だって分かっていますよ。
あんな度数高いもん飲んだら身体が温まるでしょうが!!
ほんと、モスクワ特派員とかみんなまとめてネヴァ川に流されればいいのに。
ま、もうマスコミは最近完全なネタ要因なのでどうでもいいです。
そんなことより、役の話だ。
今から100年前、小山内薫はチェーホフを上演して
とある評論家から、ロシア人になっている役者がいないね。
と言われて、とっても悩みました。
どうやったらロシア人になれるんだろうと。
役者の中にはロシアで何十年と暮らしていて、ロシア暮らしの方が長いくらいのものもいました。
でもロシア人にはなれなかったのです。
で、出た答えはロシア人にはなれないというもの。
われわれに出来るのは、台本と、書かれたテキストと向き合うこと、考えること。
と、小山内が気が付いたにもかかわらず、彼が死ぬと新劇は迷走し
ロシア人になるためにカツラをかぶり、髭を生やし、金髪にし、ロシア人になろうとします。
昔はそうするのが外国劇をやることだと思っていたんだそうです。
今見ると、変なことだけど、その変なことをごく真面目にやっていたのです。
きっとハリウッドで出てくる日本人も、真面目にやってああなっているんじゃないかな。
私たちから見ると、ふざけているようにしか見えないけれど。
しかしながら、演劇の場合には典型という存在がいます。
シェイクスピアなどでは、ユダヤ人が登場すればそれだけで金に汚かったり
大金持ちだったりという属性を帯びています。
けれど、近代の演劇はこれを否定することから始まったのです。
ノラは妻という典型から逃げ、女という典型に戦いを挑むのです。
ですから、自ら典型にはまろうとしないでほしいと思います。
逆に言えば、上手く典型を演じられる人というのはそうはいません。
わざとらしくなく、特徴を捉え、それを演技に活かす。
けれど、それができる人は典型よりも自分の理解した役の本質を大事にしている気がします。
きっと、きっかけが欲しいというのだとは思います。
演じるのに何か分かりやすいきっかけというか、指標となるものが。
あらかじめ言っておきましょう。そんなもの簡単にみつかりません。
もしかしたらあるのかもしれないし、最初から無いのかもしれません。
もし見つけたと思ったらすぐに忘れてください。
それを繰り返すと演出家からいままで経験したことのないくらいの駄目だしが来ます。
そして、何より自分で分かるはずです。繰り返した瞬間に、これは違うと。
さぁ、本番まで一緒に苦しみましょう。
私は、それをどう伝えればいいのか、どんな言葉を選べばいいのか
苦しむのでしょうから。
さて次の話題
質問そのものについて。
これは私に対してとか、誰に対しての質問という意味ではなく
書かれているテキストに対する問いかけという意味での話。
どういう人間なのか
どういう状況なのか
どういう話なのか
という問いを全員が発しているものの
なぜこの台詞を言うのか
なぜこのような行為をするのか
なぜこの話をやるのか
といった、問いかけはしていないという点。
それを前提として受け入れてしまうのではなく、
疑問に思ってほしいのです。
もちろん、場所はとても重要なことです。
別荘とはどんなものなのか、コーラスガールはどんなところに住んでいるのか
こういった質問がありました。
私からすると、この質問はとても以外なものでした。
もちろん、脚本を書いたときにイメージをして書いたのですが
その質問が最初に出たというのが不思議でたまらなかったのです。
それよりも、人物たちの心情とか、台詞がどういう意味なのかという質問がでるのかと思っていました。
うーん、それが自然なんですかね?
私は役者の経験も何もないので、私の方が異常なのかもしれません。
先に行けば、そういった質問も出るようになるのかな?
それとも、その辺りはもう理解しているので、状況を知りたいのかな?
状況を知った上で考えたいのかな?
色々と勉強になりますね。
私としては今回の作品が面白くなるならば、何でもやるつもりです。
役者に嫌われようが、演出家に嫌われようが、そんなことはどうでもいいのです。
舞台さえ面白くなるのならば、役者が舞台で素晴らしい演技ができれば
私の評価などあがろうが下がろうが知ったこっちゃありません。
もちろん、演出家と役者と観客を納得させるのが私のドラマトゥルグとしての役割なので
嫌われるつもりも、あなどられるつもりも、おごり高ぶるつもりも、斜に構えるつもりもないですが。
そういった意味で、ドラマトゥルグは絶対にどこかに属してはいけないのだと
私なりに考えています。
さぁまだまだ始まったばかり
急がばまわれです。
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