「かくしてわれらはアントン・チェーホフを葬ったのだ、きみ。私はこの葬儀にすっかりまいってしまって、そのことを明快に君に書き記すことができるかどうか。歩いたり話したり笑ってさえいるけれど、心の中は不愉快きわまりなく、まるで体中にネバネバしたものを塗りたくられ、汚泥の嫌な臭いがして、脳味噌も心臓も分厚い層がべたついているみたいだ。
あの稀有な人間、素晴らしい芸術家、生涯を俗悪と闘い、どこにでもそれを見つけて、どこででもその腐った染みを月の光にも似た柔らかでとがめるような光で照らしだしてみせたアントン・パーヴロヴィチ、あらゆる低俗と野卑にうんざりさせられたあの彼が、「生牡蠣輸送用」の車両で運ばれてきて、コサックの後家オリガ・クカレトキナ(コケコッコーの意)の隣に埋葬されたのだ。些細なことさ、君、だがね、あの車両とクカレトキナを思い出すと私の心臓は絞めつけられて、憤怒と敵意でいまにも咆えたて、わめきたて、殴りつけたくなる。遺体を洗濯かごで運ぼうと、彼にとってはどうでもいいことかもしれないが、われわれロシヤ人仲間にしてみれば、私は「牡蠣専用」車は許しがたい。この車両にこそ、故人をいつもあれほど苦悩させた、まさにそのロシヤの現実の俗悪さ、野蛮があるのだ。ペテルブルグは彼の遺骸を出迎えなかった、それはそれでいい。そのことで私の心は病まない。私はむしろアントン・チェーホフのような作家の葬儀には心から彼を愛する十人と顔を合わせる方を取る。私が会ったのは「公衆」という群で、それはおそらく三~五千人、そういう全部が私にとっては一緒くたになって低俗さを勝ち誇る分厚く脂ぎった黒雲に見えた。
ニコラエフスキー駅から芸術座まで私は群衆にまじって歩き、まわりで私のことを少し痩せたとか、肖像画と似てない、おかしな服を着ている、帽子に泥が跳ねている、長靴を履いているのはおかしいとか話し、汚いとか、鬱陶しいとか、シャリャーピンは牧師みたいで髪を切って男前が落ちた、と話すのを耳にした。これから飲みに行くところだとか、知人の家へ行くとか、なにやかや話していたが、誰ひとりチェーホフについて一言もない。本当に一言もだよ、君。救いがたい無関心さ、微笑みさえもまるで石みたいに変わりようのない低俗さだ。祈祷のときに劇場のそばに立っていると、誰かが私の背後で短篇『雄弁家』を思い出した。覚えているかい、一人の男が墓前で故人について演説しているが、死人は生きていて、彼の隣りに立っている。これが彼を思い出していた唯一の例だ。
墓前でみんな演説を待っていた。それはほとんど行われなかった。公衆がゴーリキーが話すようしきりに要求しだした。私とシャリャーピンが姿を現すと、どこでも我々二人はすぐに執拗に眺められたり触ったりの対象になった。そしてまたもやチェーホフについては一声もなし。この公衆というのはいったいなんだ? 私にはわからない。樹の上に登る奴がいる、ニヤニヤ笑い、十字架を壊し、場所のことでわめき合い、大声で質問する。「どれが奥さんだ? 妹は? 見ろよ、泣いてるぜ!」、「知ってるかい、彼は一銭も遺さなかった、全部マルクスに持ってかれて」、「哀れなクニッペル!」、「彼女に同情することなんかないさ、劇場で一〇〇〇〇貰っているんだ」、等々。
そんなことが全部耳に入ってくる、否応なしに、しつこく、厚かましく。聞きたくもない、なにか美しい心のこもった悲しみの言葉を耳にしたかったのに、誰ひとりそれを口にしなかった。我慢ならぬほど悲しかった。シャリャーピンといえば、泣きだして罵りだした。「こんな下らん連中のために彼は生きたんだよ。奴らのために仕事をして、教えて、叱ったんだ。」私は彼を墓地から連れ出した。そして我々が馬車に乗ると、群衆が取り巻いて、薄笑いして我々を眺めていた。誰か、何千人かの一人が、叫んだ。「諸君、どいてくれ! みっともないぞ!」彼らはもちろんどかなかった。
すまない、取りとめのない手紙で、これで君もわかってくれるだろう、私の気分を。まったく腹立たしくてやりきれない。私は葬儀について「人でなし」という評論を書くつもりだ。なにが問題なのか、それで君にもわかる。我々はアントン・パーヴロヴィチ追悼の本を出すことを考えている、まだこれは秘密だが。この本で執筆するのは私、クプリーン、ブーニン、アンドレーエフだけだ。」
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