2017年4月3日月曜日

読書会1日目(序文と1章)

 2016年4月3日、首都のはずれにある一室で読書会が始まった。
 役者でもなく演出家でもない研究者が、スタニスラフスキーの本を読むことを企画したためだ。
  そんなマニアックな企画に何人かが集まった。
 研究者とともに本を読むことで何の役にたつのかわからないが、とにかくやってみることにした。
  読書会の様子を記録に取ることにした。そうすれば参加した人は思い返すことができるし、これから参加する人にはこれまでのことを知ることができる。
  あとになって参加者が有名になったら、この記録は別の価値を持つに違いない。
  決めた、これからこんな感じで記録を残していこう。

簡単なこの企画の始まった背景を述べた後で
本を読み始める前に、大切なことをみんなに伝えた。

それはこの読書会はシステムを学ぶ会ではない、ということだ。
参加者が各自が学ぶのは素晴らしいことだが、システムを教えてもらえるような場ではないし、そもそも私にそんな能力はないからだ。

まず第1章よりも前に序文を、私が読み始めた。
声に出して読むのは初めてだ。
まず、スタニスラフスキーが自分で書いた伝記「芸術における我が生涯」を1巻にしているのは無理があることを述べた。システムについて書く意思をスタニスラフスキーは持っていたが、伝記は息子の結核治療のためにお金が必要になり、催促されて書いたものだからだ。
ここで書かれているような計画でシステムについて執筆が進んだわけではない。
こういった後付けの正当化をスタニスラフスキーも行なっている。

こんな風に知識をたまにひけらかしていかないと、私がいる意味がない。
しかし、知性が俳優の情緒(エモーションという単語が使われている:補足)とその潜在意識を抑圧する危険性をスタニスラフスキーはおっしゃっている。気をつけなければ。

だが、具象化、霊感と怪しい言葉が出るので、解説せざるを得ない。
言葉が気になってしまうのは研究者のサガである。
そのついでに、ソ連時代の唯物史観という思想の中で心理的なことについて語るのは危険を伴い、そのためにスタニスラフスキーがここで言い訳を連ねていることは解説を加えた。


ようやく1章にはいる。
最初は主人公となるナズヴァノフが、授業で短い場面を見せることになり
そのための準備をする描写から始まる。
主人公はシェイクスピアのオセローを選ぶ。ここに挙げられている数々の作品はスタニスラフスキーが実際に演じたものが並んでいる。

ロシア人にとっては馴染み深いオストロフスキーも日本では知る人はほとんどいない。
チェーホフの一大前のリアリズム作家で、現在でも最も人気のある作家だ。
彼の作品には成金がよく登場する。桜の園のロパーヒンもそうした人物の系列だ。

家の中の小物を恋人に見立て、役作りをしていく主人公に参加者たちは色めき始めた。
舞台上で演技をしたことがない私には、まったく素通りしていた箇所だったが、
演じたことのある人には実感を伴って迫ってくるらしい。

これは新しい発見だ。

ここで使われている霊感という言葉は、インスピレーションであることをコメントした。なお最新の翻訳では混在していて、統一されていない。

参加者にはロシアで学んだ方もいて、
ロシアの演劇人に関する紹介もあり、予想外に情報が得られる会にもなったのが嬉しい。
同時に私の存在意義が危うい。

ナズヴァノフの1日目の稽古は、彼が遅刻したせいで全員が連帯責任で中止となった。
遅刻をした主人公は仲間からも責められ炎上。
しかし家に帰ると、すぐに忘れて役作りを始める。
鉄の心臓を持つ男である。

むしろ演技に失敗した時の方が落ち込み度合いが激しい。
参加者からも彼へのツッコミは多かった。


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