2017年11月30日木曜日

24番地の桜の園@シアターコクーン

http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/17_sakurano/

演出:串田和美(ピーシチク)

ロパーヒン:高橋克典
ラネーフスカヤ:小林聡美
ガーエフ:風間杜夫
アーニャ:松井玲奈
トロフィモフ:八嶋智人
ほか

観劇日:11月27日 S席10000円


24番地の桜の園というネーミングを聞いて、42番街のワーニャを思い浮かべる人はどれだけいるのだろうか?
チェーホフの作品を見るならと人に聞かれた場合、私は42番街のワーニャをオススメしている。
字幕付きのDVD版がなく(英語のみ)、ビデオしかないのが辛いけど・・・

さて、実際に舞台が始まってみると、42番街のワーニャとの関係性は無かった。
単に24番地はシアターコクーンがある番地であり、劇の進行を見ても、それ以上の特別な意味は全くなかった。なんとも肩透かしである。

24番地の桜の園という改名がなされ、新訳と脚色が翻訳の木内宏昌と演出家串田和美によって行われていることからも明らかなように、単純な桜の園の上演とは異なる、演出が行われている。

チェーホフは日本ではリアリズム以外の演出をすると、激烈に憤慨する人々がいるが
そんな人たちは放っておいて、私どんどん新演出をすべきだと私は思う。

悲劇喜劇でケラリーノ・サンドロヴィチがチェーホフのプロという言い方をしてクレーマーを皮肉っているが、自分の理想の演出を思い描かせてしまうのがチェーホフなのかもしれない。

そういうわけで、今回の桜の園も串田さんの演出でどう変わるのか私自身は期待していた。

ただ全体的な感想を先に述べてしまうと、今回の演出は失敗だったとしか言いようがない。
もちろん、作家の作品を演出家が演出によって壊したから失敗した、などというわけではない。

そうではなく、加えられた演出がほとんど機能しておらず、パンフレットや各雑誌で事前に語っていた表現しようとしていたことが、実際の演出ではほとんど出来ていなかったようにしか見えなかったためだ。

もし高橋克典のロパーヒンと小林聡美のラネーフスカヤがいなかったら本当に壊滅的な作品だっただろう。

休憩開けの後半は舞台装置が変化して効果をあげている部分はあったが、休憩前の前半は演出に対してほとんど評価できるところはなかった。

以下、演出に関するネタバレあり。




24番地の桜の園には様々な演出が用いられているが、そのもっとも特徴的なものが桜の園の物語がバラバラに場面ごとに切り取られ、再配置をされている点だろう。

前半がどのように再構成されているのか、記憶とともに順番に追ってみる。

音声の子供の声(死んだグリーシャ)が呼ぶ声のなか登場人物たちが全員登場し、舞台装置を回転させながら現れる。
記憶というキーワードが演出の核となっているが、ラネーフスカヤの辛い記憶を思い起こさせるスタートで、期待を膨らませる始まりだった。

ところが、次に始まるのはロパーヒンが競売から帰ってくる場面。
つまり、桜の園が買われたというこの物語のピークが最初に示される。
ただし、ロパーヒンのあの爆発に至る前に場面は変わり、トロフィーモフとラネーフスカヤが初めて出会う場面に変わっていく。

そして、次はワーリャとガーエフがラネーフスカヤの身持ちの悪さについて言及し、アーニャに諭される場面。
(細かい部分だが、ガーエフはここで身持ちの悪いというのはラネーフスカヤの男癖の悪さを言っているのであって、平民と結婚したことについて言っているのではない。その点は翻訳がおかしかったように思われた)

次は、一幕の最初にエピホードフが靴を鳴らしながら現れる場面に変化する。
(ここで22の不幸せは、災いの吸い取り紙に変更となっていた。しかし、エピホードフはここ以降見せ場がなく、ドゥニャーシャ、ヤーシャ、エピホードフの役者は可哀そうなほど存在意義がなかった)

次に第1幕のラネーフスカヤの帰宅(ここで役者が人形のように制止する演出がある。ただ全体として役者の演技はリアリズムであるため奇異な印象しか受けなかった)

挿入されるセピア色の集合写真を取る場面(これは記憶というテーマだろう)
それが終わると、第2幕のロパーヒンとトロフィーモフの言い争いが始まる。
(ここでは台詞の意図が変更され、ロパーヒンもいつか食われる側に回るという実際にはないトロフィーモフの言葉が加えられていた。)

また、この場面ではトロフィーモフ、ガーエフ、ラネーフスカヤ、アーニャ、ワーリャ、トロフィーモフの6人が横並びに観客の方を向いて椅子に腰かけて食事の真似事をする。
それぞれに違いがあるわけでもなく、ただひたすらに貪り食う演技をしながら台詞を話す。
しかし、こうしたアヴァンギャルド風の演出はリアリズムの演技でほとんど進むなかに挿入されており、全体的な繋がりがないため意味不明でしかなかった(実際アヴァンギャルドにも程遠いだろう)。

次はシャルロッタが、短編のジャガイモとテノール歌手の話をする。
(これ以外にもチェーホフ作品がいくつか挿入されるが、第七劇場の鳴海演出のかもめが六号室と結びついていたような親和性はまったくなく、ただの遊びでしかなかった。)

その後、1幕の最後、
さらには4幕最後のフィールスの独白(彼も演出で存在意義が失われた被害者だろう)

そして、ロパーヒンが別荘地にするよう求める1幕の場面。
ここで、本来登場しないピーシチクの娘(ダーシェンカ)は奥さんに変更され
しかも舞台に登場する。

それが終わると、ワーリャとガーエフが朝を迎える場面
一番最初のロパーヒンの親父に殴られた思い出
ラネーフスカヤが母親の幻影を見る場面

再びピーシチクの奥さんが登場し、ピーシチクと下らない話をする。

そして、またロパーヒンが別荘地にする許可を求める2幕の場面がある。
(ここでロパーヒンが家を取り壊しましょうという台詞がないため、2人が別荘地にするという行為に反対する理由が若干変わってしまっている)

第2幕の最初のシャルロッタが自分の出自を語る場面。
ここで私は誰なのかという台詞を登場人物が口にする。

2幕の最後のアーニャとトロフィーモフのデートの場面。

ここで、ガーエフが銀行家になった妄想として創立記念祭が突然始まる。
(風間杜夫と小林聡美のやり取りは流石だが、遊び以上の効果はやはりここでもない)

シャルロッタの影ダンス、きゅうりをかじるシーン

弦の切れる音、遠景にはユダヤ人の楽隊にロパーヒンが金をばらまくシーン

パーティのラネーフスカヤとトロフィーモフの恋を語る場面
ビリヤードのキューを折ったエピホードフとワーリャの場面
そして再び桜の園を買ったロパーヒンの場面となり、ロパーヒンの桜の園を買った喜びを爆発させるシーンで前半は終了する。

一応、最初の場面が最後にもあり、円環構造になっている。

こうして、前半だけを見ても場面は次々に入れ替わった状態で観客に提示されるのだが、
桜の園を見たことがない、もしくは見たことはあるが完全には覚えていない人は
明らかに内容を追えるような構造にはなっていなかった。
(後ろの客席の人は常に配役表と舞台を交互に見ており完全についていけていなかった)

もちろん、場面を入れ替える演出自体は、エフレーモフがかもめの演出で行っているように串田演出が目新しいわけでもない。
ただ、その入れ替えによって何かが生まれることを意図して、どの演出家も場面を入れ替えるという方法を取っている。

しかし、今回の演出では場面の入れ替えで何かが生まれたのか、新しい発見が観客にもたらされたのか、と考えてみると、そういった点は一切なかった。

むしろ、場面がバラバラになったせいで、登場人物たちが何のためにそこにいるのかが
ロパーヒンとラネーフスカヤ、ガーエフ以外分からなくなり、他の登場人物を演じている役者が可哀そうになるくらい、物語から切り離されてしまっただけだった。

評価できる部分も、トロフィーモフとラネーフスカヤのやり取りであったり
ロパーヒンの桜の園を買った喜びを爆発させる場面のように
その切り取られた場面内で評価できるものであって、
コラージュされた全体的な場面を通して評価できる点は無かっただろう。




休憩があけると、狭苦しかった前半の舞台装置は無くなり、低かった照明も高くなったことでコクーンの舞台の広さ発揮され、幻想的な情景が広がる。
家が無くなったことでそれぞれの未来に明かりが差したようで、後半を先にやればよかったのにとさえ思った。

なぜかヤギが舞台の奥にいて草をはんでいるが、最後まで特に物語にはかかわらない。

突如、仮面を付けた役者たちが登場しダンスを踊り始める。

それが終わるとその仮面を付けた人々が、第4幕の別れを言いに来た農夫たちだったという趣向になっている。(今回の演出で休憩からここまでは良かった)

ここでロパーヒンにシャンパンを渡すのはヤーシャではなくフィールスという変更がなされていたり
第1幕のワーリャにロパーヒンが牛の声で驚かせる場面が、ガルルルと狼に変更になっていたりするものの
それほど大きな意味もない。


そして、今回の舞台で私が目を覆いそうになるほどの場面がやってきた。
突然、ピーシチクが奥さんと熊の寸劇を始めるのである。

どうやらピーシチクが金を取り立てる側に回ったという妄想らしい。

熊はあばれ馬に変えられ、ピーシチクが持つ馬のイメージとかけられていたりするが
もはや単なるオヤジギャグでしかなく、
串田の演技は、前半の創立記念祭の風間杜夫と小林聡美のように単独で見られるようなものですらなかった。

なぜここで演出家をしている串田自分が、熊のスミルノフをわざわざ演じたのかさっぱりわからない。
まだ恋愛関係にあるロパーヒンとワーリャ、もしくはアーニャとトロフィーモフにやらせたなら分かったが、存在しない奥さんを登場させてまで演出家自身が出しゃばってまでやることだったのだろうか。


これが終わると、ホームビデオの再生が大きな幕を張って舞台上でなされ、記憶をめぐる演出が思い出したように行われる。しかし、ここまでの一貫性のなさにより、その場面の美しさしかなく、取ってつけたようなものでしかない。
ここでのマイクによるラネーフスカヤの語りも、いったい何の意図があったのか。

オクムラ宅が古民家を使って演出した桜の園は、ホームビデオの再生を最後にノスタルジックにしていて非常に効果的だったが、今回のものはまるで取ってつけたような演出にしか感じられなかった。


その後、フィールスが農奴解放を憂う部分があり、
ガーエフが三輪車を乗って登場する(この演出自体、桜の園では使い古されているものだ)。
シャピーロが演出したモスクワ芸術座のドレイデンが同じように三輪車で現れた場面を知っているだけに、風間杜夫は悪くないが余計にガッカリする。

続くアーニャがラネーフスカヤに未来を諭す場面も、これまでのアーニャとラネーフスカヤの積み重ねがないため浮いてしまい、シャルロッタは箱と会話をしてただ去っていく。


そして、金を返しに来たピーシチクと奥さんが現れたあと、ロパーヒンとワーリャの関係が決着する場面に続いていく。

もうこの頃になると場面の入れ替えはされなくなり、最後まで普通に時系列に進行していって結末に至るのだが、
こうなるといったい前半の意味不明なコラージュは何だったのかと思わざるを得ない。

短い切り取られた場面には、いくつか評価できる部分もあったが
ラネーフスカヤとロパーヒン以外は、短い場面のなかにしか生きられず
役者たちの無駄遣いにしか思えなかった。

そんな状況にまさかの演出家自身が演じる熊の挿入がされて長々とやられる。
役者たちをあれだけ酷い状況にしておいて、自分が主役になる寸劇を途中に入れてしまう、その厚かましさには呆れ果てるしかなかった。

もし演出家が演出に専念していたなら、違ったものになったのだろうか。



(蛇足かもしれないが翻訳について)

パンフレットに翻訳者のコメントが載っているのだが、ちょっと疑問に思った部分がある。

ロシア語ではロシアを「ラシースカヤ」というと書いてあるのだ。

んん???

ロシアは音としては「ラシーヤ」がロシア語であるし、形容詞にしても「ルースカヤ」で、「ラシースカヤ」はあまり使われない方の形容詞である。
しかも女性形になっているのが意味が分からない。インペーリヤ(ロシア帝国)を省略したのか?

気になって原文を調べてみたらトロフィーモフは「ルースカヤ・ゼムリャ」ロシアの大地といっている部分はあるが、ラシースカヤという形容詞は劇中一度も使われていない。

該当すると思われるトロフィーモフの台詞は、フシャ・ラシヤ、ナーシュ・サート
という台詞である。ロシア全土が僕らの庭なんだという有名な部分だ。

うーん・・・

これ本当にロシア語からの翻訳なのだろうか?
これもしかしたら英訳からじゃないの・・・?

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