2018年8月24日金曜日

スタニスラフスキー「俳優の仕事」1-1


前書き
 19XX219日、Nという街で、私は有名な俳優であり演出家、教育者のアルカージイ・ニコラエヴィチ・トルツォフの公開レクチャーの記録のために同僚の速記者とともに呼び出された。このレクチャーは私のその後の運命を決定した。私の中に抑えられない舞台への強い欲求が生まれ、現在、私はもう演劇学校に入学し、アルカージイ・ニコラエヴィチ・トルツォフその人と彼の助手のイワン・プラトノヴィチ・ラフマノフの授業がもうすぐ始まろうとしている。
 私は古い生活を終わらせ、新たな道を進むことで限りなく幸せだった。
 とはいえ、過去だって私に何かしらの役に立つ。例えば、私の速記術だ。
 私がすべての授業を体系的に記録し、出来うる限り速記したらどうだろうか。そうすれば丸ごと教科書となるではないか。それがあれば学んだことを復習できる。私が俳優となったあとでも、この記録はその仕事が困難な瞬間のコンパスになるだろう。
 決めた。日記の形で記録しよう。

.ディレッタンティズム
1.19XXXX
 今日、私たちはドキドキしながらトルツォフ先生の最初の授業を待っていた。しかし、先生は教室にやってくると、信じられない注文をしただけだった。彼は私たちに自分で選んだ戯曲の一場面を演じるよう指示したのである。その芝居は大舞台で行われ、観客として劇場の劇団員や執行部の人たちが参加するはずとのことだった。先生は舞台装置のなかの私たちを、つまり舞台の上の、装置に囲まれ、化粧と衣装を付け、フットライトを前にした私たちを見たがった。彼が言うには、そうして見せることによってのみ、私たちが舞台のどの段階にいるのかはっきりと分かるということだった。
  生徒たちは戸惑い固まってしまった。私たちの劇場の舞台で演じるなんて? それは芸術への侮辱、冒涜だ! 私はどこか別の、もっと権威の低い場所に移すよう先生にお願いをしようとしたが、そうする前に彼は教室を出て行ってしまった。
  授業が取り止めとなり、空いた時間は戯曲の場面を選ぶために私たちに与えられた。
  先生の思いつきは活発な議論を呼び起こした。はじめ議論に加わったのはそれほど多くなかった。特に熱心に議論に参加したのがスタイルの良い若者のゴヴォルコフで、聞いた話ではどこかの小さな劇場で演じたことがあるらしい。美しく背が高くグラマラスなブロンドのヴェリヤミノワ、小柄でハツラツとして騒々しいヴィユンツォフもそれに加わった。
  しだいに残りの人たちも差し迫った演技について考えられるようになってきた。想像の中でフットライトの陽気な明かりに包まれる。すぐに公演は面白く、有益で、必要でさえあるように思われてきた。公演について考えると心臓が強く高鳴りはじめた。
  私とシュストフ、プシチンは最初はとても控え目だった。私たちの想像はヴォードヴィルや中身のない喜劇より先には及ばなかった。私たちにはそんなものが相応に思えた。ところが周りのみんなからは、はじめはゴーゴリオストロフスキー、チェーホフといったロシアの作家、それから世界的な天才作家たちの名前が当然のように次々に出てきた。気づかないうちに私たちの控え目だった態度はどこかに行ってしまい、ロマンチックなものや、歴史もの、詩劇がやりたくなっていた……。私を魅了したのはモーツァルト、プシチンはサリエリだった。シュストフはドン・カルロスを思いついた。そして話はシェイクスピアになり、ついにオセロに私の選択は落ち着いた。この役に決めたのは、プーシキンの本は家にはなかったがシェイクスピアならあったからだった。創作活動の導火線に火がついた私は、すぐにでも仕事にとりかかりたくて本探しになど時間をかけていられなかった。シュストフがイアーゴ役を引き受けてくれた。
 
  最初の稽古は明日に決まったことが、その日のうちに私たちに伝えられた。
  家に帰部屋にこもると、『オセロ』を取り出してソファーにゆったりと腰掛け、本をおごそかに開いて読書に取り掛かった。しかし、2ページ目からもう演技することが抑えきれなくなくなってきた。私の意思に反して手や足、顔が勝手に動き始めた。こらえきれず、声に出して読んだ。手元に大きな象牙のペーパーナイフがあった。私はそれを短剣かのようにズボンのベルトに挟んだ。厚手のタオルはターバンに変わり、窓のカーテンからまだら模様のカーテン留めは包帯役を任された。シーツと毛布からシャツとガウンのようなものを作り上げた。傘はサーベルに変わった。盾がない。しかし、隣の部屋の食堂の棚に大きなトレーがあることを思い出した。それを盾に変えることが私にはできる。
   さぁ出撃だ。
 装備を整え、自分が立派なかっこいい本物の戦士であるかのように感じた。しかし、私の外見は現代的で文化的だが、オセローはアフリカ人だ。彼には何かトラのようなものがなければならない。虎の身のこなしを見つけるために、色々と訓練を始めた。部屋をこっそりと忍び足で歩き回り、家具のあいだの狭い通路を機敏にすり抜ける。戸獲物を待ち構え棚の後ろに身を隠す。私は大きな枕を想像上の敵対者に変え、待ち伏せてひとっ飛びに襲いかかった。そしてそれを絞め殺し、「トラ風に」踏みつぶした。それから枕はデズデモーナになった。私は彼女を情熱的に抱きしめ、彼女の手に模した伸ばした枕カバーの角にキスをし、それから軽蔑を込めてわきへ放り投げ、再び抱きしめる。そして首を絞め、想像上の死体に涙する。多くの瞬間が素晴らしい成功だった。
 こうして気付かぬうちに、5時間ほども演じていた。こんなことは強制されてはやれない。俳優としての高揚によってのみ数時間が数分に感じられるのだ。自分で体験した状況は本物のインスピレーションによるものだった証拠だ!
  衣装を脱ぐ前に、もう部屋でみんなが寝ている機会に、大きな鏡のある誰もいない玄関にこっそり行き、電気をつけ自分自身を覗き込んだ。期待していたものとは完全に違い驚いた。演じているときに発見したポーズやジェスチャーは私が思い描いていたようなものではないとわかった。それ以上に、鏡はそれまで自分ではわからなかった自分の体型の筋張った様子や、美しくないラインをあばき出した。失望によって私の元気はすぐに消え失せてしまった。

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