第7章は突然キャラクターという視点が取り入れられ
この分析の変遷が提示されるのは面白いのだが、
まず問題の前提として、キャラクターとプロットを論じるにあたって
『ハムレット』は適切なサンプルなのであろうか?
というか、キャラクターという近代的な眼差しが近代以前の『ハムレット』にまで向かったという
事例を出しているのだと思うのだが、
その説明がないので、読者はなぜこの話が出ているのか分かりにくい。
しかもそこから近代に戻ってこないまま話が終わってしまう。
また、この章では
複雑な心理をもつと、キャラクター(登場人物)がプロットから逸脱するとあるのだが、
それはなぜプロットの拡張ではなく逸脱へと結びつくのだろうか。
そもそも逸脱しているのか?書のなかではいきなり断定される。
キャラクターがプロットよりも前面に来る劇作なのは理解できるが
逸脱という表現が適切なのだろうか??
そして、結局ここでもキャラクター中心に演出が変化した・・・・なんてことはなく
終わってしまう。
やはり演出家の本なの? とここでも思ってしまう・・・
ハムレットの人間性に注目した演出って絶対にあったと思うんだけど・・・
この辺、クレイグとか調べるとかなり面白そう。
さて、第8章
プロットとキャラクターの優劣をバーナード・ショーのピグマリオンで論じるが
大衆の求めるストーリーとショーが書いた結末の不一致をもって
プロットとキャラクターについて書いているのだが
まずプロット=大衆の求めるハッピーエンド
プロット=ロマンス
という理解がかなり飛躍ではないか。
これはプロットとキャラクターについての例ではなく
観客と作家の対立の話であるし、
そして、マイフェアレディでは演出家(監督)と作家の闘いである。
演出家は戯曲を書きかえることが許されるのか?
その点も論じられるべきだと思う。
プロット主導とキャラクター主導という論理展開だが
そもそも歴史劇である作品とフィクションである作品のプロットとキャラクターを
同列に扱ってよいのか、アリストテレスの主張はそこまで拡張可能なのか
その辺りも論理的に怪しいと私は思うのだが・・・・演劇史研究としては常識なのかしら?
この辺りでスタニスラフスキーが人物に一貫性を求めたシステムを作り出した点を
考えべきなのでは、と思うと、
それは11章の不条理劇の方で、スタニスラフスキーがキャラクター主導の演出家として
位置づけられてベケットと対比されている。
9章のブレヒトに関しては、この流れのなかでブレヒトを読むのが
はたして良いのかどうか、もはや判別ができないので
ブレヒトの専門家に意見を聞いてみたい。
第10章は突然、オタクと二次創作というのが語られるのだが
この二次創作の理解も怪しい。
まず自分とキャラクターを重ねるコスプレ
と独自の作品を作るいわゆる同人誌的な物語の再創作は
まったく別ものである。
そこにキャラクターの商品化と、どんどんと情報を重ねて行くために
またまた論理的に危うい。
というか、二次創作ということを考えれば
ローゼンクランツとギルデスターンは死んだとか挙げるべきではないのか・・・
話は消費という話に変わり、解釈と消費の密接さが主張されるが、
この辺でもう付いていけなくなりました。
この辺りは読解力が追い付いていないのか
論理的に飛躍があるのかすら分からなくなっていたので・・・落ち着いてから
読み直さないとよく分からない。
10章、11章については筆者の専門分野ということもあり
やはり一番すぐれた部分。
終章も単独で読めば面白いけど
やっぱりこれ演出家の本じゃないよね、という突っ込みが最後まで消えず。
最後の段落の、さて「演出家」はどうなったのでしょう?という問いが
はたして、この本を読んできて問うことできる質問なのか
私には分かりません。
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