2016年7月31日日曜日

重力Note チェーホフ『かもめ』

観劇日:7月15日(金)


 東京は遠い。まして中野となるとさらに遠い。
 田舎の人間にとって観劇は一大イベントに近い。
 ふらっと映画館によるようには足を運べない。

 劇場に着いたのは開演時間をわずかに過ぎた頃で
 中に案内された時には既に『かもめ』は始まっていた。

 しかし、登場人物たちは私が知っている順番では無い順序で
 台詞を語っていく。それは4幕であったり、2幕であったりと
 バラバラに並べられている。

 そして、台詞を語る役者たちも、奇妙に動きながらであったり
 移動しながらであったり、その台詞を語っていく。

 舞台装置は大きなアクリル板が一つ。
 その透明なアクリルの中には羽が散りばめられている。




 奥にはテーブルと椅子。
 月は大きな照明。

 マーシャ、ニーナ、アルカージナが3人並ぶ。
 赤い服を着たアルカージナ。
 黒い服を着たマーシャ。
 白い服を着たニーナ。




 こう3人があらためて並べられると、その表現の仕方のせいで3人の違いよりも
 3人があまり変わらない存在であることに気が付かされる。

 前回のイワーノフでは、男優の方に目を奪われたが
 今回は女優陣の方に目を奪われた。

 この上演では、シャムラーエフ、ポリーナ、ほぼソーリンもが
 消し去られてしまっていて、
 中心となるのはトレープレフと女優3人である。
 ドールンとメドヴェジェンコも出てくるがあまり目立たない。

 役者たちはある場面を除いて、表情を出さない。
 そのことを考えながら見ていると、そもそも表情だけでなく身体の方でも感情表現をしない。
 こちらもある場面を除いてだが。

 トレープレフの包帯を変える場面、
 その直後のトリゴーリンを手元に戻そうとするアルカージナの場面
 この部分では表情を作り、大きな痛みを伴う身振りが行われる。
 (最後にも近い場面があるが、かもめではないので例外であろう)

 これらを除けば、たんたんと時が過ぎ、台詞が語られ、役者たちが出入りし
 そして終演までの時間が流れていく。

 そこで、悪い癖を持った観客である私は、何かしらの繋がりを見い出そうとし
 何かしらの意味を探しては、見つけられず
 ついには、ただ舞台を見ることになった。

 そこにあったのは、役者たちの存在だけであった気がする。

 私が得た感覚はそれだけであったと思う。

 しかし、それはとても大きく説明しづらい感覚であったが、貴重なものだと。

 アクリル板のネオン、かもめの電球の明かり。
 
 こうしたものが東京、つまり都会であることと私には重なった。

 帰り道、いつもの日常では遭遇することすらないような人々の波に飲まれ
 再び、田舎に戻っていく道すがら

 この無数の人の中で、存在するということはなんと難しいのだろうかと
 そんなことを考えていた。

 
 

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